上杉もと氏(昭和19年卒)第39回医療功労賞・海外部門を受賞

2011年月2月28日の読売新聞に、東邦大学の前身である帝国女子医学薬学専門学校の卒業生で眼科医の上杉もと氏が掲載されました。 上杉さんは専門学校卒業後33歳で修道女となり、62歳の時にパラグアイに渡航、町の診療所を拠点に人々の診療にあたりました。 16年間の医療活動に対し、第39回医療功労賞・海外部門が贈られました。 「パラグアイの人たちのために一生をささげよう」と、62歳で海を越えた。以来16年間、南部の町ピラポの診療所を拠点に、貧しさのために治療をためらう人たちの回診を続けた。 帝国女子医学薬学専門学校(現・東邦大)を卒業後、眼科医になった。戦時中、修道女会が運営する下宿で暮らしたのがきっかけで洗礼を受け、33歳で修道女の道に。海外支援に向かう先輩らを見送りながら、「自分もいつかは」と思い続けた。「熱意さえあれば、年齢は関係ない」と修道女会の後押しも受け、南米への赴任を決意した。 回診ではジャングルを縫うように歩き、廃屋で一夜を過ごしたことも。白内障を患った高齢女性の言葉は忘れられない。「手術しましょう。お金はいりません」と伝えると、「息子たちが面倒を見てくれるだけで幸せ。私の分で他の人を診てあげて」。 体調を崩し、11年前に帰国。現在は、名古屋市内の老人保健施設で入所者の心の悩みを聞いている。「もう先端医療はわかりません」。穏やかな笑みをたたえつつ、「またパラグアイで奉仕したい」と背筋をピンと伸ばした。

(デイリー・ヨミウリより転載。左記事)

山梨日々新聞に嶋崎紀代子先生(昭和19年卒)が紹介されました。(右記事)


野澤良美(姉・昭和20年卒)を偲んで

すこやか病院保育室 小川昭子(昭和25年卒)
平成22年8月18・19日に東京ビッグサイトで全国病児保育協議会発足20年の大会があり、感謝状を頂きました。この20年間のさまざまの思い出を胸に病児保育の益々の発展を祈りつつ帰路に着きました。又、この大会で母校東邦大学に病児保育室が開室されていることを知り、大変感激いたしました。くわしいことは後述させて頂きます。
今年は、全国病児保育協議会発足20周年誠におめでとうございます。心よりお慶び申し上げます。つい先日病児保育室に取り組んでいたことが思い出され、正に「光陰矢の如し」と感無量でございます。
この度大阪の八尾徳洲会総合病院の神原雪子先生より、一昨年逝去した姉のささやかな寄付を、機関紙発行にお使いいただける由を伺い、誠に有難く厚く御礼申し上げます。
病児保育に全力投球で努力していた姉は、天国で皆様に感謝し、どんなに喜んでいることでしょう。思えば亡き姉夫妻と開業以来昨年で五十年になりますが、それを目前に姉は逝去し、残念でございました。平成三年は開業三十周年で、その間大きな事故もなく地域医療に貢献出来ましたことに感謝し、医療以外に何かお役にたちたいと考えました。三人で市の幼稚園、保育園、校医など長年携わって居り、子どもが病気の時の母親の苦労を度々見て居り、病児保育の必要を痛感、市の後押しもあり開室を決心致しました。 しかし、何といってもすべて初めて手探りの状態でしたが、多くの方々のご協力により開室にこぎつけました。働く若い両親に大変喜ばれ、少しは少産少子の歯止めのお役にたつのかと、ほっとしうれしゅうございました。
その頃、姉は副会長という名誉ある肩書きを頂きました。当時は子育て支援の行政の後押しも必要で、厚生労働省やこども未来財団などへの訪問、病児保育協議会の総会、研修会などへ猛暑の中汗だくになって動き廻っていた姿が思い出されます。
私はいつも留守番役で、申し訳なく心を痛めておりました。開室した「すこやか病児保育室」は関東地区、中部地区で第一号で、テレビ、新聞、雑誌などの取材に追われる毎日でした。一方新設する先生方が北海道から沖縄から見学に来室され、ある時観光バスで、保育士、看護師、市の職員の方が来られた時は本当にびっくりし、よく床が抜けなかったと、しばらく笑い話になっておりました。こうした見学者の方々にも・微細に亘り笑顔を絶やさず説明していた姿が思い出されます。几帳面で曲がったことが嫌いな反面、深い心の瞹かさの持ち主でした。
平成十七年、第五十回日本女医会総会に於て名誉ある吉岡弥生賞を受賞いたしました。
病児保育で杜会に貢献した事によるものでした。月日の流れは早く、早や二十年が過ぎましたが、この間多くの先生方のご親切なご支援を頂きました。帆足先生御夫妻、保坂先生、九州の藤本先生には、心温かいお気遣いを賜り、この紙面を拝借して改めて御礼申し上げます。医師となって六十余年、大学出講して五十年、病児保育にも努力した姉、立派な人生だったと思います。「あき子ちゃま、留守をお願いね」と片えくぼの笑顔で声をかけてくれる事は二度とありませんが、私の心の中に永久に残り、「お姉様いつ迄も見守っていてね」とつぶやき乍ら、私にやさしい甥家族と姉の遺した医院とすこやか病児保育室を継続してゆく決心で日々過ごしております。
病児保育、日本女医会、母校などを心から愛し、「僅かな寄付がお役にたてば」と生前申しておりました。病児保育の益々の発展を天国の姉と共にお祈りしペンを置かせて頂きます。
(病児保育研究創刊号より)
東邦大学病児保育室「ひまわり」が開設されることになったのは、東邦大学理学部生物学科教授(現在理学部長でいらっしゃいます)、東邦大学男女共同参画推進委員長 大島範子教授が、科学技術振興調整費「生命(いのち)の科学で未来をつなぐ女性研究者への継続的支援モデル事業」に平成21年度に採択されたところから始まっているということを小児の渡辺美砂先生から伺いました。大島範子先生に心から感謝申し上げます。又この開室に御尽力下さった青木継稔先生、中野弘一先生、渡辺美砂先生に深く御礼申し上げたいと思います。なお大学病院に開室したのは、東京女子医大に次ぐ二番目であったこともうれしく思いましたがここ一年爆発的に増えて、すでに10大学病院以上になったと知りました。
病院保育の急激な発展は病児保育の必要性から、大変喜ばしいことと、しみじみと思いました。 今後も元気な中は、母校の病児保育室(ひまわり)のお役に立ちたいと願っております。

   

被災者の悩み少しでも軽く

                小松孝男(昭和59年卒)宮城県支部

  〔河北新報3月29日(火)より転載〕 気仙沼の心療内科医・小松さん 診療所失いながらも・・・避難所を往診  東日本大震災で被害を受けた気仙沼市鹿折地区で、心療内科医が避難所を往診して回る。地元の小松孝男さん(64)。自身の診療所を失い、処方できる薬はない。それでも「少しでも心をほぐしたい」と、体調不良を訴える被災者と向き合っている。  11日の津波の来襲。小松さんは看護師らと避難して難を逃れた。ただ、2年前に勤務医から転じ、故郷に開設した「地域医療の拠点」は押し流されてしまった。  「被災した患者たちが心配だ」。その一心で翌12日から避難所に足を運び、自らの患者を無償で診て回った。診療はほかの被災者にも広がり、今では毎日、17カ所の避難所で150人以上の体調をチェックしている。  大切な人や物を失った空虚感で、不眠やパニック発作に悩む人が少なくない。手元に処方薬はないが、日々の会話で変化を見守る。重症患者には、派遣医療団に分けてもらった薬を届ける。  「先生の顔を見ただけで落ち着くよ」と避難所の男性(72)。同行する看護師浅野美保子さん(56)=気仙沼市=は「自分も倒壊した診療所付近を見ると、動悸(どうき)がする。同じ立場だから分かる気持ちがある」と被災者に寄り添う。  「1人で考え込まずに周囲に相談してほしい。周囲も孤立させないことが大切」と呼び掛ける小松さん。診療所の早期再開を心に期するが、今は避難所が仕事場だ。  「避難生活を送る住民がいなくなるまで巡回を続けたい」 避難住民の心のケアに当たる小松医師(中央)と看護師長の浅野さん(右)=26日、気仙沼市の東陵高